福島 2013年 5月

5月上旬、知人の遠藤博明氏から「叔父の納骨で福島に一時帰省するのでよかったら同行しませんか」とのお誘いを受けた。考えてみると僕自身一度も福島に行ったことがない。震災から2年、福島がどう変ったのか、或いは変らなかったのかこの目で見ておくには良いタイミングのように感じて連れて行って貰うことにした。
彼は家庭も仕事も東京だが実家は福島は南相馬市。福島第一原発20キロ圏内にあるため避難指示地域に該当する。
昨年4月にようやく避難指示解除準備区域に再編され一時帰宅が可能になったが、 御両親は依然神奈川のほうで避難生活を続けている。
ちなみに叔父様は今年急性白血病で死去されたそうである。原発事故との因果関係を証明するのは難しいだろうし仮に立証されても補償は裁判で何年も争うことになるだろう。ただ一つ言えることは彼の叔父さんもまたずさんな避難支持に従って必要以上の被曝をした可能性を否定出来ないという事だ。若い世代の白血病による死者も既に出始めている。

※避難指示解除準備区域:年間20mSV以下、申請すれば復興に向けて商業活動が許される
居住制限区域:年間20〜50mSV、4年以内に帰還の可能性のある地域で一時的な立ち入りのみ許されている
帰還困難区域:年間50mSV以上、4年以上かかってなお帰還の目処の立たない地域で立ち入り禁止になっている


5月24日:東京を出発し福島を目指す

首都高から東北道に乗り最初のインターで飲み物を買う

天気は上々

遠藤氏の持参するセシウム線量計は0.1μSV未満で推移

その後栃木を抜け福島に入ったあたりから線量計の数値が上がり出す

0.2~0.3あたり

場所によっては0.3を超えるところもある

だが「外はクルマの中の倍と思って下さい」とのこと

セシウムの半減期は30年というからこの緑濃い山々で子供達の遊ぶ声が聞こえる頃には僕はこの世にはいないだろうな

福島で インターを降り福島駅を抜けて南相馬市に向う

福島市街地では0.1〜0.3

場所や風向きで数値はコロコロ変る

マスクをしている人は東京や福岡より少ない

といっても花粉対策程度のものでは殆ど役に立たないとのこと

左写真は飯舘村に向う国道

手にしているのが線量計

10万円以上する

飯舘村入り口付近、走行中の車内で1μSVを超えた

ちなみに除染の重点検査区域は0.23μSVから

南相馬市でこの数値を超えた地区は一時的な立ち寄りまでしか許されていない

南相馬市小高区役所前にあるボランティアセンター

この辺りは避難指示解除準備区域(20mSV/年以下)で申請すれば店も開ける

が、勿論民家に住人はいない

手元の線量計は0.3〜0.4μSV

ところが役場に設置してある線量計は0.127を示したままピクリとも動かない

たしかにその辺りに近づくと線量が落ちる

設置場所だけは念入りに除染されているようだ

これでは本来の役目を果たさないと思うんだけどなぁ

行政としては国民に「放射能汚染は無くなりつつある」と思わせたいのだろう

それが政府主導なのか自治体が自主的に行なっているのかは判らないが

住民、とりわけ子供達を危険にさらす行為であることに違いはない

今年3月には今だ線量の高い区域でマラソン大会まで行なわれている

除染袋がそこかしこに置かれている

引き取りを拒否している自治体は少なくない

だが日本全国どこでだって第二の福島になり得ることを無視してはいけない

玄海原発が爆発すれは僕の故郷だって瞬時に壊滅してしまうのだ


南相馬市民の仮設住宅は南相馬市に多くあるが

その一つ、千倉仮設住宅

居住制限区域(20〜50mSV/年)とは目と鼻の先にある

それで果たして避難と言えるかという疑問は残ったが・・・

ここのところ仮設住宅の駐車場に置かれたクルマが壊される事件が続いているそうだ

仮設住宅の敷地は地主さんの厚意で貸与されたものが多いと聞いた

昔からその地に住む人の中には仮設の住人を良く思っていない人もいるとか

その方達の話は聞けなかったから善し悪しを判断するのは止めておく



一時帰宅が許された地域の人は頻繁に帰れるようにはなったが、自宅で自らの命を絶つ人もまた急増しているとか

仮説というには2年という月日はあまりにも長過ぎる気がする

終りが見えれば頑張りようもあるだろうが

たとえ線量が下がっても健康被害が少なくなっただけで元に戻ったわけではない

思い切って故郷を捨て新たな地で人生を始めた若い世代も戻ってはこないだろう

沢山の街灯が灯る夜の小高駅前商店街

ここもまた居住制限区域

勿論人っ子一人いない

暫く見ていると

誕生日のビックリパーティのように

家と言う家が、店という店が一斉に灯りを点して

息をこらしていた人々がワッと飛び出してきそうだ

その空気だけを残して人々は散り散りに去っていった


5月25日:福島2日目 時が止まったままの南相馬

2日目の朝は8時に起床

ホテルが満杯だったため

被災者家族ということで特別に仮設住宅の集会所を借して頂いた

30畳以上の広い部屋に二人

シャワーが無い以外は快適そのもの

ここで暮す人達の心労を思ったら贅沢は言ってられない

実際この地区の人々は震災後、水道が戻るのに1ヶ月以上待たされたのだから

それにここで暮す方々から直に話を聴けたから

ホテルがとれなくてかえってよかったと思う

しかし抜けるような空とはよく言ったもんだ


左より遠藤さん、藤田さん、伊藤さん、斎藤さん

納骨の儀に出席する遠藤氏に代って今回南相馬を案内して下さった

Thanks!

 

今だ線量の下がらない小高地区(居住制限区域)を抜けて海岸線に出たところ

海岸線付近は線量0.1μSV前後

だが河川によって運ばれたストロンチウム90が沿岸に堆積し続けている

半減期はセシウム同様およそ30年

 





 


 

震災前に合った住宅地は家も道路も何もかも大地から根ごそぎ引き千切られたまま2年以上経過した

ここだけ時間が止まっているようだ

 


 


 


 


 


 


 


 


 

海岸線を北上したところにある東北電力原町火力発電所

原発の爆発後暫く停止していたが今年の春、ようやく再稼働

タンク内はこの二年間ですっかり被曝しておりその量たるや凄まじかったそうだ

洗浄にあたった東北電力の職員さんはその時の様子を笑って話すが、聴いているこっちは返す言葉も無い

 

発電所手前の住宅地は基礎だけ残して全て流されていた



 


 


 


 


 

東北電力敷地内にあるグリーンパークの遊技場

5月の晴れた週末に子供の声が響かない公園


昼食は地元で有名な末広亭で

この辺りは海からも距離があり津波の被害も及ばなかったようだ

道行く人やクルマも多く生活感がある

実はこの店をやっているのがその昔知り合いのバンドでドラムを叩いていた佐藤浩一クン

再会は25年ぶりくらいだろうか

東京のライブハウスに定期的に出ていたがバンドバブルの消滅とともに解散した

なかなか良いバンドだったが彼はきっぱりケジメをつけて地元の南相馬に帰り、そして家業を継いだ

市内に4店舗といわき市のほうにも支店を持つまでになったが震災と放射能汚染のダブルパンチでこの本店を残して南相馬の3支店は現在閉めているとか

本日のお薦めという金目鯛定食をとる

昔のよしみで秋田産の岩ガキと本マグロの刺身もつけてくれた

う・・・うまあい!

岩ガキ・・・生きてて良かった・・涙モンだ、この味は

店内は家族連れでいっぱいだ

この地を訪れてようやく子供の笑顔を見たような・・・

御三方はヒレカツ定食をとる

2〜3日前に近所のトンカツ屋さんでヒレカツ食べたから

今回は刺身にしたがまた食べに来よう

復興トンカツを

 

新鮮で安全な食材の入手は大変だろうなぁ

これからも地元の笑顔のために頑張ってくれい!

 

食事終えて飯舘村方面に向う

この辺りで線量は9を超えた

ここは帰還困難区域(50mSV/年)

4年以内の帰還が望めない立ち入りさえ禁止されている地域なのだ

橋の下には綺麗な渓流が流れている

フカフカの落ち葉に足をとられて沢まで下りた

濁りの無い水はとても冷たい

思わず呑みそうになった

水も安心して呑めないような状況で、しかも今後も改善の見込みさえ立たない未熟な技術しか持ち合わせていないでよくもまー再稼働とか言えるな

小高神社

同行した御三方が言うには南相馬の高校生のデートスポットなのだそう

へぇ・・・海ぢゃないの!? 湖も川もなかなかロマンチックだと思うけどな

なんで神社!?


 


 


 

三日前に出演が決まった南相馬の小屋バックビート

東京以北でアコギのソロライブやるのは初めてだなぁ

会場入りしたのはなんと開演45分前

セシウムが染み付いたシャツやカーゴパンツ、靴を処分し

汗を拭って着替えを済ませサウンドチェックを10分で終らせ

いざ本番!

今日はもうARBの懐メロだぁ

後半はリクエストに応えて片っ端から唄った

そして終り頃にハプニングが起った

「バッドニュース」石橋凌・田中一郎作

この曲は歌詞を用意していなかったし僕自身ずっと演っていない

思い出しながらギターを弾いていると一人また一人と唄い出し

いつの間にかその歌声は大合唱になった

真面目にやっていれば音楽の神様だってちゃあんと微笑んでくれる

僕にとっても忘れられない夜になった Thank you all!

打ち上げのショット

また来るぜい!


5月26日:福島三日目はいわき市から富岡町へ

 

朝8時に起床

集会所を元通りに片付け

お世話になった仮設住まいの方々に御礼をいい

南相馬を後にする

常磐自動車道は南相馬から東京方面に向う数10キロが今も不通になったままである

よっていわき市へは一般道で向う事に

評判がいいというラーメン屋で遅い朝食を摂る

店の人が「ウチの支那そばは評判がいい」と言うのでそれを頼む

「中国に遠慮して中華そばと呼ぶ人もいるけどね、ウチは支那そば」

随分とまた勇気あるおばちゃんやなぁ

少なくとも中国人は支那人と呼ばれる事を快く思っていないようだぞ

二日酔いで味が全く判らず

 

富岡町は完全にゴーストタウン化していた

完全に

当然ながら線量はかなり高い

富岡町の再編では、北東の地域が今後4年以上帰れない帰還困難区域に指定された(人口の約3割がこれにあたる)

また4年以内の帰還が見通せる居住制限区域が人口の約6割

本来早期の帰還が見込まれる避難指示解除準備区域が約1割


 


 


 

住宅地を抜けて海岸に向う


 

富岡駅

向こう側にあった住宅は一部基礎を残して綺麗さっぱり流されてしまった

 


 


 


 


 


 

行き場を失って堆く積まれた除染袋

生きているうちに故郷が再生すると思っている人はひどく少ない

「他県に押し付けるよりいっそこの土地を放射性物質処理に特化した町作りを始めたらどうか」

そんな声も聞いた

放射線のゴミは多くの自治体が住民の強い反発で受け入れ困難な状況にある

反対意見についてどうこう言うつもりはないが

もし玄海原発が爆発したら僕の故郷は簡単に第二の福島になる

この醜い風景はこの国に住む限り何処ででも起こりうるのだ

どこででも


福島滞在を終えて

わずか3日間ではあったが、被害の及ばない地域に安穏と暮らしている自分の認識の甘さを今回痛い程味わうこととなった。
ただ言えることは例え行政が強いリーダーシップを発揮し住民を帰宅困難区域から安全な場所に完全撤退させたとしても生まれ育った故郷を失った人達の心にポッカリ空いた空間を埋める事は出来ないということだ。
人間の命は短い。ものの100年もすれば犠牲者も加害者もみんなこの世界から消え去ってしまう。恨み辛みの感情から自宅や会社まで、時には見慣れた景色や地形までも、あるものは消え去りあるものは形を変えていってしまう。残された人生を精一杯生きたところでその生きた証さえも消え去ってしまうのだ。儚く悲しいことだがだからこそ残された人生を精一杯生きていこうと思う。
だがその貴重な時間を一部の既得権者が己の私利私欲のために人々から奪おうとしている。いや、既に孫子の代までむしり取られてしまったかもしれない。
直接の被害者ではない僕は口を噤み見なかったことにすることも出来る。と言うよりこの2年間そうやってノホホンと過ごしてきたのだ。言うまでもなく僕ごときが行政や東電に立ち向かったところで結果はたかが知れている。だが小さいトゲも数千数万になれば巨人のかかとを砕けるかも知れない。今我々がやらねばならないことは連帯連携ではなかろうか。権力者に決して断ち切られることのない硬い絆で結ばれた繋がりではなかろうか。

今回僕を案内して下さった遠藤さん、斎藤さん、伊藤さん、藤田さんには感謝のしようもない。彼等は自腹を切って今回のライブの経費を捻出し入場料を全て僕に渡してくれたのだが、そんなお金を受け取るわけにいかない。全額お返しした。地元復興のために、などとカッコ良いことは言わない。そのお金で酒でも買って仮設を訪れ出会った人と呑んでくれたら幸いである。その方達がまた別の人に笑顔を少しだけ分けて、そうして希望の連鎖が続けばきっといつかは報われる気がする。彼等以外にも美味しい食事を奢ってくれた佐藤クン、お茶と漬け物でもてなしてくれた仮設に住む方々、多くの被災者の方々から僕も笑顔と勇気を頂いた。それをこれから同じ数の人、いやそれ以上の人達に渡していこうと思う。

※挿入のマップは今回案内役をかって出て下さったお一人、斎藤晃央さんに作成して貰いました。Thanks!

2013年5月 白浜 久