「南相馬の現状を訴える」


※2013年6月神奈川県横浜市で発表されたAさんのレポートを御本人の承諾を得てコピーを掲載しました



私はここ横浜市在住の者です。
実家が20キロ圏内の南相馬市小高区にあり、今回の事故で家族が避難しております。
本日は福島の現状についてとの主題でお時間を頂いております。
福島が抱える問題は地震・津波、放射能に端を発する諸事情で多岐に渡ります。
ご存知のように原発被害により現在も15万人を越える人々が避難を余儀なくされています。
日常生活を破壊され健康被害に脅える重大な人権侵害が15万件、
そのご家族と縁者を含めれば途轍もない数の被害が進行中であるにも拘わらず、窮状を伝える報道は減り
風化に乗じた被害の矮小化が顕著になってきていると感じます。
全般的なお話は他の方がご用意されていますので、私からはあまり報道でされる機会の無い南相馬市の地元の様子を主にお話しようかと思います。
短い時間ではありますがよろしくお願い致します。




まず簡単に家族の避難状況からお話します。
私の家族は3/12日の夜に約8キロ程北西の南相馬市原町区の石神第二小学校へ避難しました。
空間線量が20μsv/hを越えるフォールアウトの中、体育館のドアは開け放たれて人々が出入りしていたと言います。
3/14に地元に残る友人と電話で話した際に、南隣の浪江町に津波被災者の救援に来るはずの自衛隊が来なかったと聞きました。
後になって、その日南相馬市から自衛隊が撤退したことを知りました。端的に言えば市民を置いて去ったわけです。
組織の上の命令かと思っていましたが、地元の方から伝え聞くところによると、現地部隊の長が国の無線通話を傍受して自主判断したそうです。
市役所や避難所に撤退を通告して、果たして残る市民をどう案じたのでしょうか。
この瞬間に国家の体は失われたと言っても過言ではないように思えます。

その後3/15の2号機の格納容器破損・4号機爆発の状況を受け、
福島市のタクシー会社へ電話をし、避難先の家族のピックアップを依頼しました。
その日の昼に南相馬市の20〜30キロ圏内に屋内退避指示が出されました。
丁度タクシーが南相馬市へ向った後に発令された為、タクシーが引き返すのではないかと
気を揉んだことを昨日ことのように憶えています。
幸いタクシーは引き返すことなく南相馬市へ到着し、福島市へ家族を連れて行ってくれたのですが、
皮肉にもプルームと同中を供にすることとなりました。

避難先の福島市内はその日24μsv/hを越える空間線量となり、なんとか高速バスを手配してこちらへ呼び寄せたのは3/24。
その日の福島市の空間線量はまだ5μsv/hを越えていました。
親を迎えに新宿のバスターミナルへ迎えに行くと小振りな防毒マスクをした人がいました。
バスから降りてきた人ではありません。その方は当時の新宿の汚染をいち早く知っていたのでしょう。
それから早くも2年が経過し3年目の夏を迎えようとしています。
これまで2度の一時帰宅を含め度々帰省をしてきました。
時間の経過と共に街を取り巻く状況を振り返ってみます。

事故後話題になりすっかり有名になってしまった南相馬市ですが、自治体としての歴史はまだ新しいのです。
南から北へ向かい、小高町・原町市・鹿島町が2006年に合併しました。
現在は小高区・原町区・鹿島区となり行政・経済の中心は原町区です。
事故後に報道されて来たのは主に30キロ圏内の原町区の様子で、
20キロ圏内の小高区が報道されるようになったのは昨年4月に、宿泊以外出入りが可能となった避難解除準備区域へ再編された後です。
他の20キロ圏内の自治体が主に町村単位で避難しているのに対して、最初から捩れが始まっています。
自治体は早い段階で政府から30キロ圏内避難の打診があったのにも拘わらず固辞したのではないかという話もあります。
避難には強制と自主の2種類あり、20キロ圏内、原町区の一部と主に小高区の避難者は補償の対象者です。
原町区は一時的に緊急時避難準備区域となり部分的に補償対象となりましたが、
大きく見れば隣接し放射線量もあまり変わらないのに同一市内で特定避難勧奨地点以外の殆どと鹿島区は対象外です。
逃げたい人にとってみれば、同じ市内でも補償付き避難とほぼ自費避難との差が生まれています。

この差がまず地域に分断をもたらしました。
一時はかなりの自主避難者を出してゴーストタウン化した原町区ですが、
2011年秋の緊急時避難準備区域解除後は帰還者が増え始めました。
その後その原町区内と隣の鹿島区に仮設住宅が建つにつれて、
津波被害で家屋を失った方や、全国へ避難した人達が市内へ戻るようになりました。
人口約7万人の街で今現在の市内居住者は約4万6千人。その内借り上げや仮設等の自宅以外の居住者が約1万1千人。
その中で仮設住宅居住者が約5千5百人で居住者は小高区からの避難者、取り分け年配者が多い傾向にあるようです。
現在も南相馬市外へ避難している方は約1万5千人。その内福島県外への避難者は約1万人となります。
原町区や鹿島区の住人達から見れば、小高区からの避難者は補償を貰って遊んでいるように見えたりもするようです。

私の実家の隣人が職人さんで、原町区の仮設に住んでいます。
鹿島区の現場で一緒になった方へ小高区出身であることを告げると顔色が変わると言っていました。
仮設住宅は応急と名がつく建物です。田舎の広めの家屋で生活して来た方が殆どですが、
その方達が工事現場のプレハブもどきで身を縮めて3年目です。目線が何処か違っているのではないでしょうか。
この現象は県内各地の仮設住宅で同じ状況のようで、いまでは避難者は厄介者扱いの感が強まっているようです。
いわき市では仮設住宅の駐車場で車が何台も壊され、ペンキでの落書きや、時には避難者に直接中傷の言葉が投げかけられているそうです。
スーパーで買い物をする際は贅沢をしていると看做されないよう、買い物籠の食品さえ控え目に選んでいる方もいると聞きました。
唯でさえ先の見えない生活が続く中、慣れない土地での孤立感はさぞかし身を窶すのではないでしょうか。
また、仮設居住者間でも自治的、風紀的な面で軋轢や対立が生じ、
プライバシーが保たれないことも手伝ってか、精神のバランスを崩す方が多数出ているようです。

実際に私の友人でも精神科に通っている者もいます。昔馴染みの近所の方も何人かが鬱病になりました。
私は親のストレス解消も兼ねて帰省する度に宿泊施設が取りにくいこともあり、
仮設住宅の集会所に泊まるのですが、その際に地元の避難者にお会いします。
みなさん大分老けこんできました。口数も少なくなってきているようです。
同年代の友人は妻子を逃がして老親と同居ですが、もう限界だと言っています。
若い世代が将来設計を描けない苛立ちと不安の中にいる一方、年配の人達は老い先の現実への不安が高まっています。
避難先を転々とする際に亡くなった方も沢山おられますが、仮設暮らしの果てに無くなる方も後を絶ちません。
実際私の母親は毎月のように香典を送っています。地域馴染みの方が何人も他界されました。
人生をゆっくり振り返って静かな時を自宅で過ごす筈だった人達が自宅へ帰れぬままに去って行くのです。
また、その方達がすべからず震災関連死と認定されるわけではないようです。
災害弔慰金支給の有無に反映される為、ここでも認定に対して公平性に対しての不平感があるようです。

現在、福島県の震災関連死は約1400人で全国の50%以上となります。
その内原発事故後の指定区域からの避難者は1200人を越え90%近くに上ります。
さらにその中で南相馬市は400人を越え最も多い数となっています。
因果関係の認定となれば、孤独死等はどの程度認定されているのでしょうか。
また、報道される機会が減ってきていますが、自殺も後を絶ちません。
仮設住宅から避難解除準備区域の自宅へ戻ったまま帰ってこない人がいます。
葬儀の最中にこのような報せがくるのだと、知り合いの住職が嘆いていました。
そしてその住職さえも幼子を抱え精神状態が厳しい状態であるとも言っています。

斯く言う私もこの2月に叔父を亡くしています。
私の実家に程近い住まいで暮らしていた叔父は、丁度事故後1年後に急性骨髄性白血病と診断され、先般他界しました。
いつ逝くか分からないと言いつつも、病室から震災で壊れた自宅の修繕を業者へ指示し作業を終えていました。
定年後は熱心な畑仕事が有名で元気な叔父でした。無念だったと思います。
また、この病気は10万人あたり3〜4人の罹患率です。尚且つ年間5msv被曝した原発作業員が労災認定を受けています。
医師は放射能との因果関係を否定していますが、果たしてあの高線量の下、
多種類の核種の放射性物質を大量に体内に取り込んだことは疑いようが無いわけです。
疫学調査を待たないからと言って、本当に影響が無いと言い切れるものなのでしょうか。
また、白血病に関しては郡山の女子高生がお亡くなりになっているそうです。
また浜通りの高校生で現在治療中の方がいることも伝え聞いています。
因果関係は認められませんが、この先増えることがないことを祈るばかりです。

その心配の大元である放射能への危機感については、地元の関心は低い様子です。
いや、そう見えるだけかも知れませんが表面上はあまり話題に上りません。
地元に残る長年の友人との会話の中でもかなりデリケートな話題になっています。
電話で「どうせ俺達はモルモットだ」と言っていた頃と違い、
最近は「騒ぐほどのことではない、汚染など殆ど無いに等しい。避難指示があったから避難しただけだ」等と言うようになってきています。
下手に会話を進めれば気まずくなることは目に見えます。なるほど、家庭内での対立や離婚等へ発展するわけです。
もう事故から3年目です。危機意識を持って避難可能な方は県外へ出ています。残った方々にはそれぞれの事情がある筈です。
その人達へ放射能リスクを話すことは、居住を選択したことを非難するように聞こえるでしょう。
誰だって自分の選択を否定されたくはありません。ましてや子供がいれば尚更指弾されたと受け止めても無理はないでしょう。
本当は不安で心配もしていると思います。
ただ、そこに住み続けている日常がある以上は、毎日放射能を怖がっていては気が休まる筈がありません。
本当に辛い現実がそこにあります。

それに対して仮設住宅に住む年配者の反応はちょっと違っています。
以前は帰還する気持ちが満々だった方達が、ここに来てトーンダウンしています。
理由としては家屋の劣化と若い世代の流出です。
私の実家もそうですが、住まなくなった家は想像以上に荒れて朽ちてきます。
もう以前のように住める我が家ではなくなってきているのです。
また、子育て世代は放射能を忌避しています。
子が無い人も避難先で新しい職を得てその地に落ち着いている方も出てきています。
インフラが復旧したとしても、社会基盤が失われた街に老人だけが住むのでしょうか。
ましてや小高区は仙台から南下して来ても区域の関係でそこで止まります。
南隣の浪江からいわき方面は生活圏とならず、流通が途絶え経済的なマイナス面を抱えることとなります。
小高区は避難解除準備区域となってからはやたらと線量が低いと報道されていますが、
未だ町中の小高小学校で0.7μsv/hを越えています。
いまや巨大な放射性物質となった阿武隈山地の麓へ向う西の山側は5μsv/hを越える居住制限区域です。
除染の効果を期待している人は少なく、今後帰還指示がでたとしても、本当に安心して日常生活が営めるか不安を感じてきているのです。

補償はやがて打ち切られます。財物補償は事故前と同等の家屋に見合う額とはなりません。
津波で全損の方はやっと微々たる補償が認められ始めましたが、焼け石に水です。
浪江町では水死を免れたたにも拘わらず原発事故による救援打ち切りで亡くなったと看做される方へは、親等で一番近くても60万円が提示されたそうです。
最早、帰ろうが出ようが茨の道です。一方、事故は風化し被害は矮小化され、いつまで被害者なのと見られ始めています。
実際、一貫して放射能のリスクは低く見積もられ、チェルノブイリで避難権のあるところ、
簡単に言えば放射線管理区域相当かそれ以上の汚染地に福島や汚染地の人は住み続けています。

例えば小高区と原町区の町中の線量はあまり変わりません。
山側へ行けば、つまり飯舘方面へ向えばいくらでも高線量のエリアは点在します。
福島市、郡山市、伊達市、二本松市も小高区の町中より高いエリアは珍しくありません。
実質県内避難は避難指示の為の移動に近いものがあります。
中通りの人達は大都市であるが故に高い汚染の中で犠牲を強いられ不本意に感じていると思われます。
また伊達市も福島市の対外的な汚染認識を防ぐため、位置的には飯舘村の北手にあり極めて高度汚染されているのにも拘らず
早々に特定避難勧奨地点は解除されました。

仁志田市長は年間1msvに拘りすぎるのはどうかと発言していますが、自治体の長でありながら法律解釈も違うようです。
そんな中で子供達は今も無用な被曝環境下での生活を余儀なくされています。
それどころか自治体存続の為の犠牲となっているのではと思われます。
食の安全も確立されない中、地産食材が給食に使用される傾向にあります。スポーツイベントも頻繁に行われています。
冷静に考えればそこは子供達が住むべき土地ではないと考えられます。
チェルノブイリで福島と同等の汚染がある地域では、事故後27年目を迎える今も健康被害が続いている現状を踏まえれば、
予防原則に則り安全側に軸足を置くことが妥当でしょう。

この4月に郡山市の学童の疎開を訴えていたふくしま集団疎開裁判の控訴審判決が仙台高裁でくだされました。
判決内容は行政に疎開措置を取る義務は無いと退けながらも、
一方ではその地で居住し続けることが健康被害に繋がる恐れがあることを認めています。
つまり自分で逃げなさいと言っています。極めて婉曲しながら蓋然性を認めている奇異な判決とも受け止められますが、
汚染の危険性に踏み込んできたことは広く知られるべきです。
大変重要な事柄でもあり、本来は数多く、大きく報道されるべきですが、新聞では東京新聞以外まともに扱われていません。
本当にマスメディアは機能不全に陥っています。というより正体が露呈しただけかも知れません。
東の大学もそうですが、お金を貰っている人や組織に期待できません。彼らも食べて家族を養うのです。
立場が変われば下を向きつつ同じことをするかも知れません。ですが、このままではいけません。
この問題の肝は放射能リスクのコンセンサスです。現行の電離放射線障害防護規則に基づき現実を考えるべきと考えます。

我々大人の無関心が原発産業を肥大させ、この事故をもたらしました。
2006年に吉井英勝前衆院議員が地震や津波で原発が重大な事態に陥る可能性があると対策を求める質問主意書を提出したのに対して、
その意見を無視した当時の首相は現首相である安倍晋三自民党総裁です。
また、現内閣で要職に就いている甘利氏は当時原発を所管する経済産業省の大臣でした。
その方達が再度原発を推進し被害者を打ち棄てています。
今後また同じように無関心でいれば、今度は子供達を被曝の犠牲にしてしまうのです。
先の検査結果では通常100万人に1〜2人の小児甲状腺がんが、17万4千人の検査で12例。
疑いが15例ですが、これはほぼ確定に近い見方になるでしょう。懸念されるのはこの症状だけではありません。
チェルノブイリに学べば今後様々な疾病が発症する恐れがあります。我々大人はこの状況を看過してはならないと思います。
昔子供の頃、地域の大人たちが分け隔てなく他所の子供達を注意したり、心配したりするのが不思議でした。
今、私も親になり、少しはその気持ちがわかります。近所の子供を心配するのが大人です。たかだか250キロ。近所の子供です。
みなさん、福島を始め点在する汚染地の子供を一緒に心配してください。
そして、汚染地居住者の棄民化に対して現状認識を広げてください。
日本全国、明日何処で同じことが起きても不思議ではないのです。

ここできちんとラインを引かないとみなさんの生活も、お子さんやお孫さんの未来も脅かされることになると思います。
この現状がきちんと多くの方の知るところとなれば、脱源発と叫ばずともその存続に疑問を持つはずです。
つまるところこの問題は核と民主主義の問題とも言え、この国の政治システムの欠陥を露呈しました。
民主主義に必要不可欠である権力を監視する姿勢が我々に欠落していたこともまた然りです。
福島を切り捨ててこの国は生き延びようとしています。
恐らくそうなってしまう可能性が高いと思われますが、それを許してしまうと、この国は歪でグロテスクな国になってしまいます。
子供達に渡すべき未来ではなくなってしまいます。
子供が住めないところは、結局大人も住めないのではないでしょうか。